昭和54年08月13日 朝の御理解



 御理解 第91節
 「もとをとって道を開く者は、あられぬ行もするけれども、後々の者は、そういう行をせんでも、みやすうおかげを受けさせる。」

 私は今日御神前で、お坊さんの出家の姿を頂いて、そしてその出家の髪がだんだん伸びて、きれいに昔の侍のような髪を結い上げるところを頂いたんですけれども 私は金光様の御信心は、それを合楽で今、合楽理念で例えば、今日の御理解を頂くならば、もとをとって道を開く者は、それこそあられぬ行をする。という事はそれこそ普通の人間では出来ないような修行をする。
 まぁそれこそ修行という名がつきぁどういう修行でも、断食をしたり水行をしたり、それこそ火の行水の行、ね。又は生身を持っておる人間でありながら妻帯をしないとか、もう本当に、それこそまぁあられぬ行をするわけです。そしてその行をしえた人が、だんだん分からせて頂いた所を分からしてもらう 私はその事は分かりませんけれども、合楽で私が致してまいりました修行。今から考えてみると、まぁなぁんにもならん修行であったと思うけれども。
 今日の御理解を頂いてみると、やはり通る所を一ぺん通らせて頂いたおかげで、今日のいうならば、合楽理念の中に唱ってあります。人間が人間らしゅう生きてゆくという事を説いております。一ぺん出家をする。もうそれこそ我情我欲というよりも、もうその欲というものをね、外してしまう様なきつい修行も、一時は私もさせて頂いたのですけれども、それでも実際はおかげは受けられなかった。そして始めて成り行きを尊ぶ、成り行きをいよいよ大切にするという修行に入ってもう20数年でございましょう。
 そして、合楽理念がだんだん確立してまいりましたら、そういういうならば人間がする修行ではない、そういう修行をしなければ皆んなが助からんというならば、もう助かりようがないという程しのいうなら修行も、通るところを通らせて頂いて、始めてあぁいう修行は無駄であったなぁと。
 やっぱ教祖様もまぁ痛感されたのではなかろうかと思うんです。ね、此方の行は火や水の行ではない、家業の業と、いうふうに仰せられましたけれども、なら御自身はどうかというと、それこそ雪の日にだるまさんが置いてあるように雪が積もっている。そういう雪中で御修行なさってる時代があったと聞いております。勿論あらゆる修行をなさった。もうそれこそ、あられもない御行をなさいました。
 そしてこの御教えです。元をとって道を開く者はあられぬ行をするけれども、後々の者はみやすう。ところがそれがなかなか開けない。やっぱりそういう真似かたでもしてければならないように思うておった。これは私自身の事もそうであった。まぁいうなら、今から考えて見ると身の毛のよだつような話てある。教祖様がある時に、前の日に山の竹藪の竹を全部切るように神様から命じられた。
 その明くる日はその山にとにかくかけ足で登れ。しかも深夜の事である。もうそれこそ昨日切ったばかりの竹の山を裸足で駆け登るというのですから、大変な事であったろうとこう思う。私もそれに似た行がありました。私が北野教会にお話に当時まいっておりましたが、丁度夜になっててあのう大城の電車で北野まで行こうと思うて、大城の停留所までまいりました。もう深の闇でした。そしたら電車が参りません。
 そしたら神様が、もうそこから歩いて行けとおっしゃる。だから歩き出しました。そしたら神様から駆け足と頂いたから、まぁ駆け足で北野教会の裏まで走って行った事がございます。私は明くる日その道を帰って来てからびっくりしたんです。枕木の上をよう、だけじゃなくて川があるんです。もうそれこそそれに足を突っ込んだら足をおしょるような所。そういう事が一回ございました。
 考えてみるともう二度といわれても出来るこつじぁないような気が致します。けれども神様が行けといわれるから行く。駆け足といわれりゃ駆け足。だから丁度その枕木の上を走って行ったわけになるのです。実にあられぬ行。今から考えてみると本当にまぁ通る所を神様は通らせて下さったんだと言う風にしか思われません。そして今日合楽でいわれる所の行はどういう事かというと、もう心行に極まった。家業の行に極まった。
 だから先日から申しますように信行会という、いうならば信心の信ね、それから心のしん、それから深いという字。いうならば心行をいよいよ広め深めていかねばならない。私共が心行したとこう、今日も一日修行させて頂いたと思うておるけれども。昨日ある修行生がここに出てまいりまして、「心行とは親先生黙って治める事でしょうか」とこういうのです。「そげなこつじぁなかばい。
 心行とはね自分がいうならば、心の行をしとればもう黙って治めろといわんでも、黙って治める事か出来るのだ。黙って治める事だけが心行じぁない。心行が出けとりゃ黙って治められるんだ。」ね違うでしょうが。黙って治める修行。だから心行が出来ておれば、楽に、楽しゅう有り難う出来るはずなんだ。それを黙って治めるとじぁからというて、ぐうぐういうちこらえとるから、血の涙の出るような思いをせんならん。
 心行が出来とる心の行が出来とれは、いうならば教えを日頃頂いてるんだから、みやすう出来るんだけれども、腹も立てんでええイライラもせんで済むんだけれども、心行が目の粗い心行だから出来んのだ。だから皆さんの中にでもね、心行とは黙って治める事ぐらいに思うておられると違います。心行とはいよいよ心に神様を掛けつづける事。例えばいつも例をお風呂の話を致しますけれども、お風呂に入らせて頂いて入る時から上がる時まで、それこそ一掬いのお湯にでもお粗末にはでけません。心行がでけておると。
 もちろんタオル等でも綺麗にゆすいだら、それをきちっとこうやってせねばおれません。石鹸もきちっと水切ってこう置かにぁおられません。そうしとけばね、きれ好みだからするのじぁない。後から入って使う人が気持ちがよかろう。気持ちがよかろうだけじぁない。思わず合掌しようごたる気持ちが起こってくる。と例えば思う心が心行な訳ですね。だからそういう心掛けがいつも、私共の心の中で繰り返されておる時にです。
 何かかちっとするような事をいわれる、ここは一口言うとかなんと思うような事であっても、ぐうっとこらえる。だからそれが修行じぁない。そういう事があってもそれが心に障らんくらいな、心の行というものが心行なんだ。というふうに申しました事でした。だから心行をいよいよ深めて行く。一日四六時中、心にいうならば神様を感じ、とにかく自分が助かるという事だけじぁなくて、人が助かられる事の為までの思いを、心の中に思うておる。同時に家業の行。
 これだけの事をしたっちゃ、こりゃいっちょん儲からんけれども、と思うてもですそれを修行と思うたら、たとえ損をしても有り難いのである。もう外に行がないのだから、心行と家業の行に極まったのだから。というてこれは、いうならば疎かにしても、ごまかしても、誰ぁれも気がつかん。自分の心の中だから。けれども合楽の信心は、もうこれに極まっておるのですから、この心行家業の行を、いよいよ本当なものにしていかなければいけません。ね、
 しかもそれがね、それに心を掛けるだけではない。例えば、こうして朝参りをなさる。教えを頂きなさる 御祈念を一生懸命なさる。そういう信心が繰り返されたその上に心行があるのであり、家業の行がある。いうなら心行を完璧に、家業の行を完璧なものにする事の為に、信心修行、心行信心修行である。だからそういう信心が、なら難しいと言うたら、なら金光様の信心のいうならば、教祖様が仰る、お徳を受けるための、あの世までても持っていける程しのもの。
 この世でもいうならば、天衣無縫のおかげ、自由無碍の世界に住むね、人間の幸の条件が総て足ろうてくると言う様なおかげにはつながらないのです。心行せんでも家業の行をせんでもね、只おかげを頂くだけならば頂けましょうけれども、私共が折角信心させて頂くのでございますから、この世に生を受けたらね、その受けた値打ちというものがその真価が発揮されるような、いうならば修行を取り組みたい。
 教祖様はそれを教えておられる。同時に今私が聞いて頂きましたように、あられぬ行をもとをとって開く者はするけれども、後々の者は、みやすうおかげが受けられるという。私も出家したような修行をさせて頂いた。そしてなら今日では、いうなら昔ふうにいうならちょん髷を結うて、いうなら普通の人間と一つも変わらん。どこの変わるという事もない。いうなら、人間らしい生活。その私の人間らしい生活を、皆さんに聞いて頂いておるのである。
 それをまぁ言葉をかえると総ての事に「御」の字をつけてというふにいわれるんです。ね、総ての事柄に御事柄と御の字をてつけて頂く頂き方なんです。この事皆さんようくその自分の心でなかなか説明のしにくい所がございますのでね、いうならばどいうい事かというと、人間がいうならば出家をしたようなね、いうなら神様仏様だけしか向かわないような様子からね。そして又人間大坪に私が変わっていっておるように。
 いうならば人間らしい生き方というものが、だからここの所をいうならば、説き得ておった者は、今日私改めて教祖の信心の深さ広さを思うんですけれども、ここにそういうようなものが、その内容に感じられるわけです。後々の者はみやすうおかげが受けられる。普通の人間と一つも変わらんいうなら生き方。その内容がなら本気で修行中にいうならば、我情がとれ我欲がとれての事になってくるでしょう。
 決して金光様の信心が生神を目指すからというて、雲やら霞を食べて生きて行くと言った様なものではない。ね、食べ物一つでも、お酒も飲ませて頂けば肉食もするとできる、それが有り難いこういう事になってくるわけ。ね。あれは親鸞のお話だったでしょうかね。お衣をつけられたまま、檀家に行ってそのお魚が出たのを食べられた。それを見ておったそのお弟子の人が一緒にそのお魚を頂いた。そしてあのそのお弟子さんはその破門になったというお話があります。
 だから師匠と弟子との相異がそういうふうになってきたわけでしょう。けれども金光様の信心、いうならここで説かれる信心はです、いうなら私がいうなら生くさ気を食べる、そしてなら皆さんにも一緒にその食べる事、その事が御の字をつけて頂けばよいというふうにみやすう説いておるわけです。ちょうど親鸞がもうどんなに狩人であろうが、漁師であろうが、南無阿弥陀仏をいえば、南無阿弥陀仏だけで助かると、言った様なものじぁないでしょうか。
 それよりかもっともっというならば、人間らしい生き方を合楽では説くのです。但し心行、家業の行、信行、信心の行。火や水の行はせんでも、これだけは続けていなきゃならん何故かというと、もう人間の一番大切なものを身につけていこうという修行なのですからね、信心は。あの世にも持って行け、この世にも残しておけるという程しのものを頂く修行なんですからね。そういう修行をさして頂くのですから。
 いうならば火や水の行こそせんけれども、心行、家業の行はみっちりとです目のつまった心行をさして頂いて、そして人間らしい生き方をいよいよ身につけていかねばなりません。勿論、人間らしいという事はね、さぁいろいろ人間の中にもありますからね、いうならば、真の人間らしい人間でなければ勿論なりません。それが教えを頂いて、心行、家業の行に取り組ませて頂くとそれができる。
 今日私はね、後々の者はみやすうおかげが受けられる、なら私も一通りまぁひと通りあられもない行をさしてもろうた。信心とはそういう行をするものかと思うておったから。ところがそういう時代には、私の場合にはおかげにならなかった。そして只神様の働きそのものを受けるという生き方、成り行きをいよいよ大事に成り行きを尊んで頂くという生き方を、段々身に付けさせて頂いている内にです、皆さんが総ての事に御の字をつけて頂く生き方、これが人間らしい生き方と言う風に説かれておる訳です。
 あれをしちゃでけん、あれを飲んじぁでけんという事はない。御物として御事柄として頂く生き方。それがいよいよ有り難いものになっていくことの為にです、いうなら心行、家業の行はいよいよ目細う、いうならば自分の血に肉になるような心行。それが身についてしまうような心行が求められるわけです。その稽古をするわけですよね。
   どうぞ。